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TomGの過去日記


ここでは、2001年11月から2003年3月までの日記を公開しています。
2003年4月1日からの日記は、Mixiで書いています。
Mixiのプロフィールのリンクは、トップページから、Aboutのリンクを開いて、そちらからアクセスしてください。

2003年02月11日(火)
リモートアシスタンスが使いたい

 今日は1日中この前の続きの実験のバイトだった。
今回亜刃内の学校の後輩に被験者をお願いして、この前と大体同じ日程でひたすら時間秤と説明と記録係をやっていた。
とりあえず昨日は、今日の実験中にこの前みたいに寝てしまってストップウォッチのストップボタンを押して3秒ぐらいたってあわてて押し直すようなことがないように、ちゃんと昨日の夜早く寝て準備をしたのだが、早く寝たら早く起きたという感じでほとんど意味がなかった。
 昼休みに先生に出してもらった弁当を食いながら、いろいろと下らない話をしたのだが、1年の後輩となんてほとんど話す機会がなかったので結構楽しかった。
 それにしても今日の実験を終わって感じたのだが、内の学科の教員手何やってるんだろうか?
考えてみると情報処理点字をまともに扱うことのできる乗って、技官さんの他に誰がいるだろう。
こんな状態で点字ディスプレイ関連の実験なんてやったものだから、結構被験者の後輩達は大変そうだった。
でもそんな分からない中でも、本当に真剣にやってくれてとても助かった。
 その後家に帰ってきてから、さすがに1日中こんな事ばっかりやって疲れたので、ひっくり返って寝てしまった。
10時頃になって目を覚ますと、にゃすこさんが
「掲示番手どうやって設置するの」
と聞いてきた。
どうもこの前のプロバイダのサーバーはやめて、サークル仲間の運営しているサーバーにホームページを置くことにしたらしく、とりあえずCGIの設置はできそうだった。しかし、PerlとSendmailのパスが分からなかったので、管理者の人にメッセンジャーで聞いて、それからかなり悪戦苦闘して何とか設置はできた。
それにしても、CGIの設置をもっと簡単にできる方法って無いもんだろうか?
それに、こんな時相手のパソコンの設定を見なければならないので、リモートアシスタンスが使いたくてしょうがない。ところがこれも音声では全く使えないので、非常に困ってしまった。
でも、とりあえず結構苦労したけど、喜んでくれたから満足満足。



2003年02月12日(水)
卒論終了

 学生というのは気楽なものだが、そんな中でも最後の難関といわれるのが卒業論文だ。
この論文が完成するまでは、大学で大きな仕事がしっかりと居座って残っているようで、何となく落ち着かなかった。
しかし今日、完全とは言えないものの、俺の卒業論文が完成した。
とりあえず充実感はあまり無いのだが、これまでに抱えていた試験前のような何となくいやな気分から解放されて、今日はかなり気分爽快なのだった。
 ところでまた引っ越しネタなのだが、この前インターネットの引っ越し一括見積もりサイトで、いくつかの引越センターに見積もり依頼を出したのだが、ハロー引越センターと言うところからしか見積書がこなかった。
友達はここを使ったとき、その日の内にかなりたくさんの引越センターから見積書がメールで送られてきたと言っていたし、電話までかかってきて引っ越しの勧誘をされたと言っていたので、俺もかなり期待していたのだが、正直この結果には愕然としている。
それでどうしてこんな事になってしまったのかとじっくり考えて気が付いたのだが、これは多分、俺が備考欄に
「視覚障害者ですので詳しい説明をお願いします」
と書いたのが原因ではないかと思う。
ああ、目が見えないってそんなにでかいことか?本人気が付かないぐらいにしか今まで考えてなかったんだけど・・・。
それにしても何で社会というのは視覚障害者に冷たい人が多いのだろうか。視覚障害があると言うことだけで、すぐにメールが泊まってしまうことなんて日常茶飯事だし、そんなどうでもいいことだけでなく、社会生活を送る上で、そのような偏見が俺たちの行動を制約していることは確かだと、この年になってつくづく感じてしまっている。
ことにこの引っ越しや部屋探しなどではいろいろと苦労する。
俺は幸い新居を見つけることができたが、来年からの部屋が見つからなくて怒り狂っている友達はいるし、引っ越した配意が、何も分からずに苦労することは目に見えているのである。だからといって、引っ込んでばかりいられないので、強く生きていこうとは思っているのだが・・・。
 こんな事があると、俺はネットの世界では、絶対に視覚障害者であることを隠しておいた方が身のためなのだろうかと本気で考える。
今までの経験からしてその方がうまくいくことがあるからだ。でも、でもである、そうやって隠してきて、いざばれたときがショックになるかほっとするかの分かれ道になる。
幸いほっとする結果だったらそれでいいのだが、ショックな結果になったときの精神的苦痛といったら無い。
 俺は、自分の目が見えないことについて、「恥ずかしい」とか「目が見えないから自分は人より劣っている」とは思わない。俺は人より弱い人間だし、しょうがない人間であることは確かなのだが、それは目が見えない性ではなく、単に俺の努力が足りないだけだとも本気で思う。
でも、目が見えないと聞いただけで何も聞かずに去っていく人がいたり、そのことだけで何かを断られたりすると、日本社会ではばれない限り、目が見えないことは隠していたほうがいいのかと思うわけである。

 今日は夜中遅くに、友達のホームページ作りの手伝いをした。
友達はパソコンはそこそこできるのだが、そうはいってもホームページビルダーでページを作っているため、CGIの設置が難しいらしく、日記や掲示板、それから交信記録やカウンタなど、いろいろと設置のお手伝いをしたのである。
俺はこんな時にしか目の見える人の役に立つことはないから、結構作業そのものは面倒でも、はっきり言って充実感さえあった。
「俺はこれが得意だ」とか、「これなら誰にも負けない」ということが一つあるだけで、その人の性格は大きく違ってしまうとさえ思うのである。
 さて、一通りのスクリプトの設定が終わってみると、4時頃になっていたので、とりあえず寝ることにした。
するとやっぱりといった感じで、起きたのは11時だった。
 その後、飯を食ってから研究室にこもって、卒業研究の最終発表用のレジメを作った後、授業に言ってから今度は会社から来ていたアンケートを書いていた。
 その後、6時間目にさっき書いたレジメを担当の先生にチェックしてもらってから帰ってきた。



2003年02月13日(木)
全くしょうがねぇなぁ

 今日は9時から卒検の予行練習なるものがあったので、少し早めに起きて学校に行って発表現行の点字印刷をした。
しかしいざ点字に変換してみると、思っていたよりも原稿の量が多くて結構びっくりしたりしている。
ちなみに俺がどんな研究をやって、どんな論文を出すのかについては、そのうち友達専用ページの方にあげたいと思います。
 午後になっていつものように授業があったのだが、どうも卒論が終わってしまってレポートも課題が出ているので、先生も結構どうでも言いといった感じで、早めに終わってしまった。
そこで暇になって、友達と研究室でひたすら音声麻雀ゲームをやって遊んでいた。
昔DOSの時代にも、音声で遊べる麻雀ゲームがあった。これもそのゲームと同じぐらい視覚障害者向けに音声が出るようになっている。
しかし、ちょっと不思議なのは、この音声はどこのエンジンを使って発生しているかと言うことだ。
はっきり言ってメニューもダイアログも読んでいるし、音声スピードももちろん自由に変えられるので、これは絶対にWAVファイルとかをたくさん集めて、それを切り張りして音声を合成しているのではないのは確実だった。
しかし、このゲーム、インストールプログラムがないし、やたらとアプリケーションの本体の実行ファイルがでかい。その中に多分音声関連のモジュールも含まれていると思うのだが、一つのバイナリファイルにまとめてあるために、全くと言っていいほど手がかりのない音声合成だ。
日立の音声合成ともなんだか違うし、どこぞのドラゴンスピーチとも違った音声だ。しかもどうやらこいつ、SAPIすら使わないらしい。
本当に不思議なアプリケーションだ。
 その後、会社の方に送る写真を何枚か撮った後、5時間目の授業に出て帰ってきた。
 ところで、ここを読んでいる皆さんは、進路のことで先生なんかに相談するとき、相手の先生は何人いただろうか。
今日の夜に○○から相談されてびっくりしたのだが、あいつの言っている学校では、生徒一人に対して3人の先生が相手になるらしい。
しかももっと驚いたのは、本人が行きたくないと言っている学校を無理矢理薦めて、抵抗すると、3人でよってたかって
「行きたくない理由は何だ」とか「あそこに関する噂が原因だと思うけど、それは嘘だ」
とか、やりまくるもんだから、高校生のあいつには太刀打ちできないと言っていた。
ちなみにその行きたくない学校って言うのは、俺が今行っている某短期大学なのだが・・・。
俺は全くこの大学の状況を知らないままに来てしまって後から後悔する羽目になったので、正直言ってあいつにはこの学校には来て欲しくない。これ以上、自分と同じ事で苦労して欲しくないと本気で思っているからだ。
 それにしてもだ、3人でよってたかって一人の生徒をいわばはがいじめにしているような状態は良くないと思う。(この表現はちょっと過激すぎるかも知れないが、あえてこの表現を選んでいる。)
誤解の無いように書いておくと、これは、先生が正しいとか、生徒が正しいといった次元で書いているのではない。
先生方の方にもいろいろと言いたいことがあるのは分からなくもないのだが、やっぱりそういう事って1対1でやるべきではないだろうか。
それに、少なくとも一人の人の人生がかかっているのだから、じっくりと話し合いをして、お互い言いたいことを伝えあって、納得した方向に進んでいくべきではないかと思うのである。
それじゃなくても相手は高校生で、大人が本気になって理論でかかったら負けてしまうというのが一般的なことぐらい分からないのだろうか・・・。
どうも最近こういうくそったれ教師が多くて非常に困るんだよなぁ盲学校って。
本当は学校の名前トップページでさらしたいぐらいの勢いでむかついてるTomGなのでした。



2003年02月14日(金)
NTTはややこしい

 今日は朝起きてすぐに、NTTに電話して電話の引っ越しについての相談をした。
引っ越しというのは本当に大変なもので、すべてのものを移動しなければならない。2年の6月にも引っ越しをしたが、そのときは電話も新規契約だったし、ガスも電気も水道もすべて新規契約だった。
つまり、引っ越しとは行っても、「新規契約ばかりでものだけが移動する」感じの引っ越し方だったわけである。
ところが、今回の引っ越しに関しては、今あるものをソフトもハードも併せて、すべて丸ごと東京に動かさなければならない。俺は最初の頃、引っ越しがこんなに面倒なものだとは全く考えていなかったのだが、やっぱり何事も経験してみないと本当のところは分からない。
 所でNTTというのは、結構組織が複雑だ。俺はNTTはNTTで、会社は別と行っていても、どうせ組織的にはほとんどつながっているのだろうと考えていたのだが、いざ電話を移動する段階になって、いきなりNTTコミュニケーションズとの契約の関係でどうしたこうしたという話が来た。どうせ同じNTTならば、一気に契約まで移動してくれるだろうと思って
「それもそのまま移動してください」
と言ったら、
「申し訳ございませんが、それはNTTコミュニケーションズ様とお客様とのご契約になりますので、私どもNTT東日本の方ではどうにもいたしかねます」
とか言ってくるではないか。全く面倒だったので
「じゃぁ別に放っておきます。長距離電話はYBB使いますから」
と言って電話を切った。
全くNTTは会社を分離するのはいいんだけど、面倒なんだよなぁ・・・。
 その後学校をサボろうとは思っていたのだが、さすがにそろそろ大学の授業とはお別れなので、一応今回は出ておくことにした。
 教室に入って授業が始まるのを待っていると、いきなり今まで話しかけてもこなかったクラスの人が話しかけてきて、内のクラスの担当教官が、学生集めて来週の木曜日に飯を食いに行くと言っているという。まぁ最後ぐらいはみんなで集まろうと思ったので、俺は出席にした。
実は内のクラス、この3年間1度もみんなで集まって飯を食いに行くとか、どこかに遊びに行くとかいうことが全くなかった。これははっきり言って奇跡的なことに等しいのだが、考えてみるとこれが最初で最後の食事会になる。
もちろん一部の友達とは飯を食ったりどこかに出かけたりはしているが、クラス全部で7人しかいないのに、こんな状態になっている。
そんなわけでさすがに今回ばかりはみんな出席にするといっていた。
 その後、部屋に戻って友達とソフトのバグについてかなり検証していると、電話が鳴った。
相手は○○だったのだが、あいつには珍しく大泣きしている。
どうも昨日の続きで今日も進路指導の先生とかなりやり合ったらしいのだが、やっぱり相手の先生は、聞く耳を全く持ってくれないと言うのである。
ここまで相手が頑固だと、俺の想像はどうしてもよからぬ方向に行ってしまう。それは
「こいつら実は彼女の推薦状書くの面倒なだけ何じゃないの」
ってことだ。俺が今の大学に来るのに、当時の担任の先生に推薦状をお願いしたときには、正直に言われた。
「TomG、推薦状書くのだって楽じゃないんだから、無効言ってちゃんとがんばって濃いよ。俺は応援してやるから」
盲学校の先生がこんな生徒思いの先生ばかりだと本当にいいのだが、特に今の都立の盲学校は、ちょっと他の盲学生と違った進路を進もうとしたり、前例のない大学を受験しようとしたりすると、何とか形道理の方向にその生徒を無理矢理軌道修正する傾向があるようだ。
このような例が彼女だけなら俺はここまで日記でたたいたりはしないのだが、俺の知り合いに、去年普通高校に行こうとして
「あなたには無理ですよ」と言い切られてしまったが、戦って今は立派に普通高校でやっている子がいるのだ。
その子もかなり精神的につらかったらしいが、友達とか先輩の励ましで何とか押し切って進学したらしい。ああ、どうして盲学校の先生は、生徒が一番輝ける道を探してあげようと努力しないんだろうか。
自分も盲学校出身者なだけに、こういう話を聞くと本当に悲しくなるし頭にくる。
 さて、今日は引っ越し準備のため実家に戻ってきている。
引っ越しまでに不要な物品を持ち帰ったり、実家にあるものの中で無効にもっていくものをも取りに来たのだ。
そのついでに、近くの家具屋にでも行って、新しいベッドを見つけたりしようと思っている。ああ、とりあえず引っ越しって面倒くさいなぁ。




2003年02月15日(土)
買い物と世間知らずな俺

 はじめに書いておきますが本日も引っ越しネタです。
まぁ、おそらくこの引っ越しが片づくまではこの日記、引っ越しネタを書き続けるだろう事はほぼ間違いなさそうだ。
 所で、昨日も書いたが、引っ越しというのは本来、今まで住んでいた所から、新しい場所へものを移動すると言うことだと思うのだが、今回は引っ越し先の部屋が今までよりも狭いため、どちらかというと新しい生活空間をこしらえる感じになっている。
今までは8条の部屋に住んでいたのだが、引っ越し先は6.75条の部屋である。
たった1.25条狭くなるだけとは言っても、これって結構大きいのだ。
そんなわけで、今まで使っていた横長のタンスみたいなものをまずもっていかないことに決定したり、机を捨てて、その代りに幅の狭いキーボード収納型のパソコンラックを買ったりしなければならなかった。もちろん机を捨てると言うことは、引き出し代わりのもの入れも買っていかなければならない。
それに、理由はなんだか分からないのだが、今まで使っていたベッドが底抜け状態になってしまっており、こんなものに寝ている気がしなかったので、ベッドの下がタンスになっているものを新調しなければならなかった。
このほかにもカーペットやビジネスバッグやスーツ、そして新しい空気清浄機など、買っていかなければならないものが山ほどある。俺は目が見えないから、あらかたのものをこっちでそろえて運んでいかないと、無効に引っ越してから慣れるまでの間、買い物にも行けない可能性があるからこんなに用事が多いのだ。
ところが、実家は農家のため、俺の買い物に1日つきあっている時間がなかった。
そこで、こんなにある買い物を、すべて1日、しかも午後の4時間程度で片づけるというとんでもない強行スケジュールをこなさなければならなかった。
そんな感じで早速内の仕事で使う軽ワゴン車に乗り込んで、ものすごい勢いでいろいろな店を回り、これまたものすごい勢いで買い物を済ませてきた。
 さて、この先は恥を承知で書くことにするが、俺はこういうところに行くたびに、自分が以下にものの値段を知らないかと言うことを思い知らされる。今日も相変わらす親に「おまえはものをしらねぇなぁ」と怒られたが、俺が一番びっくりしたのは、「チェストベッド(ベッドの下がタンスになっているやつ)」よりも、スーツの方が高いかそれと同等の値段だったことだ。
引っ越し前からこんな感じなのだから、東京に行ったらおそらく俺って何回恥をかくか分からないぐらいの勢いである。
これも言い訳しておくと、普通の人なら副売り場の前を通ったとき、何気なく値段をちょこっと見てみると言うことができるのだが、俺はそれをやるためには「買いもしないものの値段を店員さんに聞く」という、日本では非常に気まずいと言われる行為をしなければならないから、こんな世間氏ら津野21歳になっていたりするのだ。
 まぁ、俺の恥さらしはこの辺にしておくが、とりあえず今日はものすごい勢いで店を回ったので久しぶりに疲れた。
 その後は、家についてひたすらこたつにひっくり返って寝てしまっていたのだが、そんな中でも内の親はひたすら残りの仕事をやっている。
こんなだと、俺は結構申し訳ないと思ってしまう。俺の引っ越しのせいで親には迷惑の書けっぱなしだ。
まぁ東京に行ってしまえばそんなことはなくなるのだが・・・。
 その後飯を食って、部屋の片づけをしながらこの日記を書いている。
来週にはレポートの締め切りも密集しているし、論文発表会もあるし、引っ越し業者との打ち合わせもあるしバイトもあるので相当忙しい。
もしかすると来週は3年ぶりぐらいの忙しさになるかもしれない。



2003年02月16日(日)
部屋の片づけ

 朝起きてみると10時を過ぎている。
しかも外はかなりの勢いで雨が降っていた。
それにしてもものすごく寒い。やっぱり実家は木造dかあら、筑波のアパートよりも寒いのだ。しかも今日は昨日の夜からヒーターの油が無くなってしまっているため、このまま寝ているのが一番暖かい方法だった。
しかし、そんなことをやっているとうちの人は朝から忙しそうに働いているので、なんだか申し訳ない気がしてさすがにすぐに起きた。
 その後午後になって兄貴がネットをするというので、ちょっと使い方を教えてからは、4時頃まで兄貴とネットをしながらしゃべったりしていた。
 さて、5時過ぎになって筑波に向かったのだが、これがものすごい荷物だった。
軽ワゴン車にぎっしりと荷物があった。
 何で早々と新しい家具を持ち込んでいるかというと、引っ越しの時にお任せパックを使うので、持っていく荷物はすべて部屋の中に用意しておく必要があったからだ。
そんなわけで、タンスを撤去して引き出しを入れたり、カーペットや新しいパソコンラックなどを持ち込んだらかなり部屋が大変なことになってしまった。
 その後、日記を書いたり電話したりしてこんな時間なのだが、全く眠い気がしないのでほとほと困っている。明日は授業で工場見学に行くことになっているので、さすがに昼過ぎに起きるのはやばいだろう。



2003年02月17日(月)
空気清浄機

 電話の音で目を覚ますと、8時半だった。
この電話は猫の引っ越し業者だったのだが、電話を置いて布団に戻ってみると、なんだか頭の上の方で音がする。
何のこともない、これは昨日この部屋に入れた空気清浄機の音だったのだが、電話しているときにはこんな音していなかった。
そう、こいつは俺が起きて、布団をばたばたさせたことに気が付いて自動的に回り出したらしい。たしかに布団をばたばたさせるとゴミは出るが、そんなものまで自動的に関知して回り出すとは、最近の空気清浄機はかなり性能が上がったのだと感心してしまった。
実はこのことに興味を持った俺、どんなことをすると空気清浄機が回り出すか、いろいろやって試してみると、部屋の中で弁当を食ったとき、たばこ臭い人が部屋に入ってきたときなどにもこいつは回り出すことが分かった。
それに、今まではたばこ臭い人が部屋に入ってくると、1時間ぐらいはにおいが残ったのに、この空気清浄機を回しておけば、15分ぐらいでほとんどたばこのにおいは消えてしまっていた。

 それは高校2年の春のことだった。
花粉症に悩まされていた俺は、前々から良心に空気清浄機を買ってくれるように交渉していた。そしてあまりに鼻をずるずるさせている俺を見て、やっと母ちゃんも分かってくれたらしく、今度空気清浄機を買ってくれることになった。
俺はこれを効いて、すぐに自分にはどんな空気清浄機がいいのか、テレビショッピングを見たり、電気屋をやっている友達にむせんで効いたりして、必至になって探し回っていた。ところが、俺が帰ってきたその日「おい、空気清浄機注文しておいたぞ」と親父が言うではないか。
もしかするとこれはちょっとやばいんじゃないかと思って話を聞いてみると、どうもラジオショッピングでちょうど空気清浄機の宣伝をしていたらしく、俺にぴったりだと思って買ってしまったらしい。
とりあえず買ってしまったが、しょうがないと思って、次の日に届いたものを見て、俺は愕然とした。それは俺が一番欲しくなかったタイプの、フィルタ式のファンがむちゃくちゃに回るいやな代物だった。
でも、買ってもらったものなのであまり文句は言えないのだが、とりあえずはっきり言ってかなり気に入らないものだった。しかもこの空気清浄機、フィルタは1年しか持たないし、1枚フィルタだし、フィルタは5000円もするし、でかいし、うるさかった。それに加えて、風の強さの切り返しかできず、センサーも着いていなかったと思う。
それでも無いよりはかなりましで、一応花粉症の症状は少しは緩和できたが、いつか新しいのを買ってやると、それを買ってもらった次の日から考えてしまうような感じだった。
 そんなわけで今回の新しい空気清浄機選びには、それなりに神経を使っていたのだが、やっぱりもの知らずな俺、店に行っても何を選んでいいのか分からずに、一番今売れている新商品を買ってきたのだが、本当にこれにして良かったと思う。
ちなみに今回俺が買ってきた空気清浄機は、シャープの「FU-N25CX」という製品で、マイナスイオンはもちろん、除菌機能まで付いている。

 さて、そんなわけで寝ようと思ったのはいいが、いろいろやって遊んでいる内に、昼近くなったので学校に行った。
今日は午後から生産管理の授業で工場見学に行ってきたのだが、結構面白かった。
 今日行った会社は、半導体を作るときのガスの制御や洗浄液の制御に使うバルブを作っている会社だったのだが、作っているところを実際に見本を使いながらさわってwかる用に説明してくれた。
俺が以外に思ったのは、バルブというのは両端にパイプを取り付けるためのねじや、上にバルブの蛇口を取り付けるねじが、四角い鉄のかたまりにくっついていると思っていたのだが、これ実は全く違って、四角い鉄のかたまり(性格にはステンレスの固まり)を削って、両端のパイプを付けるねじや上の蛇口を付けるねじを作っているのだ。
要するに、ほとんど木彫りの置物などと同じで、土台はすべて一つの部品からできている。それともう一つ、金属工場の中が何で油まみれなのかという疑問も解けた。
たしかに機械を回すのにある程度の油を使うのは分かるのだが、何で作業員の服まで油だらけになったり、工場の床まで油まみれになるのか、考えてみれば今まで不思議に思っていたのだが、これは、金属を削るときには、刃物が壊れたりしないように、また、摩擦で刃物がすり減らないようにといった理由から、金属に油を吹きかけながら加工していたのだ。あんなに大きな音を立てて金属を削っているのに火花が飛び散って火事にならないのは、油を吹きかけながらやっていたからだった。でも、未だに疑問なのは、どうして油を吹きかけながらやっているのに、摩擦熱で油に火がつかないのだろうかと言うことだったりするのだが・・・。
 それとこの会社、なんだか知らないのだが、チョウザメの養殖までやっていた。
 それにしてもやっぱり、自分の身の回りにほとんど関係ないようなものでも、それができるまでの行程を見せてもらうと結構面白いものがあるんだと、久しぶりに言って良かったと思う授業だった。



2003年02月18日(火)
卒業式と久しぶりの読書

 以前にも少しだけ書いたことがあるかも知れないが、内のクラスにはものすごく静かで、今までほとんど話をしなかったちょっと俺たちよりも年の上の人がいる。
こちらの方から話しかけない限り、その人が俺に話しかけてくることはほとんど無いのだが、今日、俺が大学の卒業式なんか庫内という話をしていたとき、突然その人が真剣な顔で話しに加わってきた。
「前日から筑波のホテルに泊まってでも卒業式に出なよ。もしお金がないならカンパしてあげる」
いつも物静かで、何も言わないはずのその人が、そんな風に真剣に話しかけてきたので、正直俺はかなりびっくりした。
どうもその人は事情があって高校の卒業式に出られなくて、今でも高校生を見かけるたびに、「自分は本当に高校卒業したんだろうか」と感じるらしいのだ。
それで、「絶対に後悔するから、一生で最後の卒業式には出ておいで」
という話だった。
 正直言って俺は、この大学に入ったことそのものが選択を誤ってしまったと後悔しているぐらいだから、卒業式はおろか、早いところ授業も何もおわして東京の新居に引っ越したいと思っている。ましてや、自分の卒業式とはいえ、前日からのホテル台まで書けて、こんな学校の卒業式に出席したいとは思わない。
でも、内の大学とはさっさとお別れしたいのだが、よく考えてみると、そんなくそったれ大学の中にも、本気で感謝したい先生がいないわけではない。バイトをさせてもらっている先生には、就職のことから社会生活のこと、そのほか数え切れないほどの悩みを効いていただいた。卒検担当の先生には就職のことでは思いっきり「人間というものは基本的には面倒くさがりである」ということを、ご自身の行動から教えて頂いた。また、この先生には、相当視力をお借りした。
こんな風にお世話になった方々に、改まって感謝の気持ちを伝えるのはこの日がベストであるとも考える。
そんなわけで正直言って「卒業式には行かない」と決めていたのだが、ちょっと迷い始めている。

 それから今日は、今まで面倒くさくて先延ばしにしていた卒検最終発表のレジメの点訳を一気に片づけた。点訳作業なんて久しぶりにやったので、ます開けの仕方をすっかり忘れてしまい、かなり大変なことになったが、何とか3時間程度で終わった。

 夜になって久しぶりに本でも読もうとして面白そうなのを探していると、「僕が15歳で社長になったわけ」という本があった。
これは15歳でクララオンラインというレンタルサーバー会社を立ち上げた人が書いた本で、その人は14歳から19歳ぐらいまで車いす生活をしていて、そんな中で当時ほとんど行われていなかった「レンタルサーバー」に着目して事業を始めた人だった。
この話ははっきり言って面白いし、俺の将来や労としていることに対してかなり参考になりそうな気がした。
今まで俺は、25歳ぐらいで会社を設立するというのはまだ若すぎて難しいと思ったのだが、確かな理念とポリシーを持って企業経営に取り組めば、決して無理な話ではないことも分かったし、何よりもこの人、種類は違うものの俺と同じ「障害者」じゃないか!
でも、この人は実は、会社を倒産寸前まで追い込んでしまって、社員全員を首にしたことが書いてあり、これにはかなり驚いてしまった。
 この本全体を通して俺が感じたことは、「人は自分のやりたいことに熱中すると、思いもがけない力を発揮する。何でもやってみること、これがすべてのスタートラインなのではないか」ということだ。

 ってここで終わりにすれば格好がいいのだが、ホームページを引っ越そうと思っている俺のこと、ちょっとばかりクララオンラインのホームページを見てきたんですよ。この会社ならサーバー使いたいと思ってですね。信頼できそうですし、どこぞの○○ジャパンとは違ってサービスの室がころころと変わることはないと思ってですね。でもなぁ、ちとお値段が・・・。



2003年02月19日(水)
4年前の話し

 4年前の今頃、俺は何をやっていただろうか。
 確か高校2年の今頃は、パソコンを買って慣れないパソコンと格闘していたような気がする。
右も左も分からない中で今のラビットの社長(当時アメディアに努めていた)に、学校帰りに公衆電話から毎日のように電話をかけて、今思えば本当にばかばか強いようの初心者的質問をしていたと思う。
なぜわざわざ公衆電話かというと、俺がパソコンを買ったアメディアという会社は、5時15分になると電話の受付が終わってしまうため、家に着いてからでは間に合わなかったのである。
 ところで、何でいきなり4年前の話になるかというと、今日、俺の4つしたのピヨマルが、内の大学に見学に来たから、そのついでに思い出したというわけだった。
(この後はちょっとやばいので自主規制します。読みたい人はお友達専用ページからどうぞ。

 午後になって、明日の論文発表会に使う現行の印刷作業をしたり、学生最後の期末試験を受けたりしていた。
それにしても、久しぶりに大量の印刷用紙を切り離して閉じる作業をやったら指が痛くてしょうがなかった。
それが終わった後、6時間目に卒業論文の最終仕上げをやろうとしていたのだが、なんだか先生とそばにいた友達と出下らない話に花が咲いてしまったため、論文の完成は来週になってしまった。
 家に帰って飯を食ってから、この前言った物流倉庫の見学会のレポートを書いた後、なんだか頭が痛くなってしばらく寝てしまった。
最近インフルエンザがはやっているので、本当に気を付けなければならないと思っているのだが、もしかかってしまったらどうしよう。
いつだったか風で高い熱を出したとき、誰も助けてくれる人がいなくて、結局もとかのに助けを求めて事があったが、もうあの子も卒業してしまって、筑波には俺の看病をしてくれそうな個は一人しかいないからかなりやばいことになりそうだ。ああ、インフルエンザになりませんように。



2003年02月20日(木)
卒業前の心境の変化の移り変わり

 卒業式が近くなってくると、妙に学校を離れるのが惜しくなるのが不通だろうが、俺はなんだかこの点で不思議な現象に見舞われている。
それは、学年を追うごとに「早く卒業したい」と思うようになってしまっていることだ。
 小学校を卒業するときは、3〜4年生のときにお世話になった先生が異動になってしまったことと、5〜6年生の時にとても言い先生に巡り会えたことで、卒業式が近づくにつれて、
「もう少し商学部にいたい」
と思ったものだった。実は、商学部にいたいと思った理由はこれだけではない。
盲学校というのは人数が少ないため、中学部にはいると、フロアバレーボールやグランドソフトボールなど、人数の必要な部活に無理矢理入れられてしまう。
そのころから運動がものすごく嫌いな俺は、「中学部=午後になるとやりたくもない運動でしごかれる」と思っていたため、本当に商学部を卒業するのがいやだった。
 中学部時代になると、やはり俺の思っていたとおり、いやな部活でしごかれたため、早く卒業して部活から解放されたかった。だから卒業式が来るのが結構楽しみだったのだ。
しかも、中学部の時は3年生でとても嫌いな先生に当たってしまったことも重なって、卒業への思いはいっそう強かった。
 高校生の時は複雑だ。部活にも恵まれ、担任の先生にも身の回りの先生にも恵まれていたにもかかわらず、中学部よりも卒業式が来るのが楽しみだった。考えてみるとこれは、「高校を卒業したい」というよりも、「盲学校を抜け出したい」という願望から来た感情だったと思う。それに重なって、コンピュータの勉強をしたいという強い希望があった。
多分こんな訳で中学の時よりも高校の時の方が卒業式が楽しみだったのだと思う。高校の卒業式は俺にとって「別れの卒業式」というより、「希望への旅立ちの卒業式」だったのだろう。少なくとも当時はそのはずだった。
 さて、いざ大学に来てみると、以前からこの日記で俺が愚痴っているような状態である。はっきり言って俺は、さっさとこのどうしようもない学校からはおさらばしたい気分である。学校内には親友と呼べる友達は二人しかできなかったし、その内の一人とは今年研究室が一緒になってからつっこんだ話をするようになった。
もう一人は入学当初からの親友だが、それにしても親友が二人、友達が3人とは、俺の思い描いていた大学生活とはかなりかけ離れたものになってしまっている。
しかも、勉強したいと思っていたことの50パーセントしかやり遂げられていない。まぁ、俺が過剰な期待を抱きすぎていたと言えばそれもそうなのだが、それにしてもかなりの期待はずれだった。
そんなわけで、俺はさっさとこの大学を出て、東京の新居に引っ越したい気分なのである。
 そうはいっても、全くこの大学に心残りがないかと聞かれればそれは嘘で、友達やお世話になった卒検担当の先生とか、バイト先の俺の相談相手になってくださった先生にもうあまりあえなくなるかと思うと寂しいのは確かだ。
 ちなみに学生生活には相当心残りで、もう少し学生で痛いと思っている。

 今日は1〜2時間目が自由参加になっていた。木曜日最後の授業なのでちょっと出るかでないか迷ったが、やっぱり寒かったので寝ていることにした。
 11時半頃に学校に行こうとすると、外は雨になっていた。しかもかなりの寒さで、手がかじかんで食堂に着く頃には100円玉と10円玉の区別が付かないほどだった。
 その後しばらく研究室で暇をつぶしてから、卒論の最終発表会があった。
 それから珍しく、内のクラスの担当の先生が、「食事会をしよう」ということだったので、なんとクラス始まって以来初めて一緒に出かけた。
はっきり言うが、これが俺の暮らすの現状であり、クラスのほとんどの人間が集まるのも集まったのも、これが最後になってしまうと思う。内のクラスはこんなにまとまりのないクラスなのだ。とか書いているとしみじみしてしまうが、本当にどうしてまたこんなにまとまりのないクラスになってしまったのかは分からない。
クラスメイト同士、仲がいい人は仲がいいのだが、グループから外れている人とか静かな人などは、本当に存在感が薄くなってしまっているように思う。
まぁそんなことはいいのだが、会費1000円で食い放題というので、結構贅沢にクレープまで食って帰ってきたのだった。



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